昭和44年04月23日 朝の御理解
御理解 第36節
「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
どうだったでしょうか皆さん、今日の御祈念、2回目の御祈念と始めになさった御祈念。あの、御祈念はね、御祈念は大変大事な神様へ通う、もう唯一の、まぁ言うならお供えとでも申しましょうか、経文をあげたり、大祓いをあげたりするのは、もうあの時の願う事じゃないでしょうが、ただ一心不乱に一生懸命、あれは何かの経文にありますでしょ、般若心経かなんかに。声高らかに、この経文をあげると。
神様も仏様も、神は梵天なんとかと言うのがありましょう、声高らかにそれを奏ずれば、もう神様も仏様も、それこそ心踊らしてそれを受けなさるという意味の事が書いてあります。皆さんの御祈念はもう、本当になっとらんです。ちゃんとこうやってから、目つぶってから人ん御祈念ば聞きよるっちいうごたる感じです。ここから見ると真正面に顔を神様の方へ向けて、一生懸命もう自分が一人で御祈念をしておるという気持ちであげなければ、勿論眠気も付きますし、いわゆる神様へのお供えがでけません。
「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが」とこう仰せられるが、それは日本国中にござる、あらゆる何々様何々様と言うて、その拝む事はあまりもの信心だけれども、声高らかに大祓いを奏ずる時には、日本国中と云う事は世界中の神々様に響くと云う事である。その一心をだすとここに最後に言うてある。世界中のあらゆる神様と云う事は、天地、天地に響き渡ると言う事です。
神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる、皆さんは女の方なんかはですね、ほんなもうこの辺口の先で言いよる、腹の底から歌の稽古でもする気持ちでおあげにならないけません。大祓いを一生懸命あげる時にはもう欲も徳もないでしょうが、所謂無我です神様への最高のお供えです。皆さんが段々と御祈念をなさって、ご神前に向かわれたら、もう神様と交流すると言う様なおかげを頂かれたら別です、あなた方が黙っとったら、必ず眠気が来る、御祈念の間眠ってしまう。
それで今日は、皆さんにもう一遍、私は御祈念をして頂いた訳です。この呼吸を忘れなさいますな、信心の稽古に通うて来とるとでしょうが、いくら書くこつばっかり書いたっちゃ詰らん、聞く事ばっかり聞いたっちゃ詰らん。そういう根本の所が分かってから、書かなならん。又は、はぁこれは有難い事だと言うて、それを頂かして貰うのだ、私の妹の婿が胸の病気で長い間休んどりましたがね、椛目時代。
2階に休んでおりました。私が朝昼晩、御祈念をさしてもらうと、兄さんの御祈念の時間が待ちどおしいて言いよりました。私が一生懸命大祓いを、繰り返し繰り返しあげておるのを聞いとると、病人がです、もう苦痛を忘れてしまうと言いよりました。皆さんお家に帰られてからでも御祈念をなさるならね、一生懸命なさらないかんです。でないと近所にでも分からんです、迷惑するごとあっちゃいかんけども、本当に何様拝みござるじゃら分からん様な事じゃダメです。
信心のなか家内が付いて来ます、信心のない子供達でん矢張り、関心を持つ様になります。一生懸命例えば大祓い奏上さして貰い、拝詞を奏上さして貰う、もう一生懸命に家いっぱいに、私は響渡ると云う事は、今日の36節の御理解から頂きますとです、日本国中に響渡るのです。ここで日本国中と仰る事は、世界国中と云う事になりましょう。世界国中の隅から隅の神様仏様が聞きたもう、心躍らせて聞きなさる、いわゆる、天地の親神様が心躍らせて、皆さんの一生懸命のね。
これはお祝詞でも、経文でも、私共が一字一字の解釈はでけませんけれども、とにかく神様がお喜び下さる様な事が、そん中には、含められておると云う事で御座います。大祓いを一生懸命、皆さんがおあげになる時には、頼む事やら、願い事やらもうないでしょうが、ただ一心不乱に神様にお供えなさる、これが最高のお供えなんです。条件がないですもん、そのご祈念を30分間も、例えば一生懸命なさるのに、ただ先唱と何人かの人に任せなさるだけ。
私は毎日、恵介君の大祓い、あの聞かせて頂くのが楽しみ。あの人の声が一際張り上げてやられるでしょうが。他の人はちゃんと目つぶって眠っとるでしょうが。こっから見て、てんででもう、こぅこぅやって揺ら揺ら、今日はしなさっとる人が、あまりにも多かったから、私はもう一遍、御祈念をして頂きました。ここには、信心の稽古に来るんですから、いうなら、大祓いの稽古と言うてもいいです。しかも、それは一生懸命のもの、そうして御理解を頂く。
違うでしょうが、折角皆さん、時間をかけてから信心の稽古をなさるのですから、もう腹の底からの私は御祈念をなさらなきゃいけない、皆さんの大祓いを聞かせて貰いよると、言わば周囲の人達がです、それに感動するぐらいのもの、兄さんの御祈念が始まると、もう自分の苦しい事も忘れて、それに聞き入ると、私の妹婿が言うとりましたが、そこにあたしゃ家族勢を揃えた信心といった様な事の出来ないのはですね、とにかく家族中でご神前に向かう事もでけない。
どうですか家族中でご神前に向こうて一生懸命ご祈念でもなさる、もうなぁにん言う事は要りません、それだけで家内が主人が、例えば付いて来ます。子供たちも付いて来る様になります。ここのあまりにお上品すぎる、私共が御本部へお参りをさして頂いて、奥城で御祈念をする時、あぁゆう気持ちでお広前では、一生懸命御祈念をなさらないけません。どういう心配事があっても、どういう汚い心を持っておっても、大祓いを一生懸命あげておる時には、もう清まっておるものです。
同じ事です。もう自分が一人、人の言わば祝詞の声が聞こえない位に、一生懸命あげなにゃいけません。今日はそういう意味で信心の稽古をさして頂きました。どうぞ私は本当に、あの何ですか、あの禅でこの禅を組んでおる時に、こぉ眠気がすると随分大きな和尚様がおってから、なんかしゃくな様なものでパーンと肩を叩いて歩きなさる。ともう今日、今日じゃないが何時も思うんです、もう金光教にもそぉ言う様なの、後ろからこうやってパチーとこう、叩いたらハッと思うてから。
その一生懸命ご祈念をすると、言う様な方法を取ったらどうだろうかとまで、私は今日は思いました。降りて行ってこらこらと肩を叩きたいごと思います、皆さんがこぉ下うつむいちゃ詰らん、真正面に神様の方を向かってね、目をつぶるのはいい、形振り構わずと言った様な事ではないけれども、言わば襟を正して一生懸命腹の底から大祓い奏上さして頂く稽古、しかもそれは神は梵天と言う様にですね。
神様も仏様も世界中の神々様に響き渡る、私は真というものが一生懸命の中にはあると。神様が仏様が、いうなら心踊らせて、それを聞きたもう、それを受けたもうのです。その後に、静かに静かに願いある事を頼み、又は詫び礼を申し上げる、言わばそいうご祈念。そういう中にそういう後に、御理解を頂かせてもろうて、私はまぁ言うならば、鬼に金棒じゃなかろうかと。
御理解だけでもいかん、もう信心には絶対御祈念ちゃもう離れない、離す事は出来ない事。拍手一つの上にでもです、工夫しなきゃいけません。教祖様はわざわざ節をつけて大きな声をする事はいらん、拍手も無理に大きな音をたてる事はいらん、神には聞こえるとこう仰る。だから神には聞こえると仰る、神様に聞こえて頂く、きこしめして頂けれる、信心を頂かせて頂いてから、静かな静かな御祈念をなさらないけんと。
どうぞ。